昭和16年から20年にかけてくり広げられた太平洋戦争において、太平洋に散在する美しい島々で。50万余にのぼる日本人が戦没されました。この他にアメリカ人をはじめ、平和に生活していた現地の人々も、多くも犠牲者を出し尊い血を流しました。
ここ又木山々麓、今あなたが立っているこの場所も、昭和19年8月11日未明、グアム島を守備していた日本軍が、米軍と激しく戦った後、小畑軍司令官以下多くの将兵が玉砕した悲しい想い出のある地です。
昭和40年、南太平洋戦没者慰霊団(団長・植木光教参議院議員)が、ミクロネシアおよびグアム島の戦没者を慰霊訪問した際、植木団長は、当地のオスカー・エル・カルボ神父と初めての出逢いをしました。その祈り、カルボ神父は、戦争の悲惨さを語り、「戦後20年間、今尚ジャングルや岩かげに薨れたままの姿で苔むす多くの日本人の白骨が散乱し、放置されているのは誠に悼ましい。なんとか早くこれらを収集して、懇ろに回向して葬ってあげたいと思っておりました。二人が力を合わせてやりましょう・・・。」と提案しました。
熱情あふれる言葉に感動した植木団長は、「それぞれの祖国に忠誠心を掲げて散華したすべての御霊を手厚く慰めるとともに、日米両国の友好と世界平和に願いをこめたシンボルとなる記念塔をお互いの協力によって建てましょう……」と、賛意を表明し、二人は堅い握手をしました。
その後、幾多の困難がありましたが、両者の熱い友情と協力に支えられ、昭和45年5月ついにグアム平和慰霊公苑が完成しました。塔の高さは50呎あって地下は納骨堂になっております。デザインは慰霊と平和の願いを表す合唱を型どりました。
グアム平和慰霊公苑の建設費と管理費等は、すべて日本全国の篤志家から寄せられた貴重な浄財でまかなわれています。われわれは、このグアム平和慰霊公苑の建設によって、日米両国の戦没者の霊位か永遠のやすらぎを得、両国民の友情の絆が一層深まることを願っております。